ソー:ラグナロク

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大河ドラマMCU(マーベル・シネマティック・ユニバース)の最新作。第17作目(!)となる今作は雷神ソーの3作目。「アベンジャーズ」「エイジオブウルトロン」などの全員集合映画だとチーム内の扱いはわりとみんな平等に見えるMCUなのですが、メタ的には「自分を主人公とする単独作がある勢」と「ない勢」という厳しい身分格差があり、中でもアイアンマン・キャプテンアメリカ・ソーは単独作があるばかりかすでに3部作完成!という別格の待遇です。3人だけで17作中9作占めており同じく初期メンのホークアイとナターシャには1本もない。厳しい。

そんなビッグ3の一角を占めるアスガルドのソー・オーディンサン王子(通称兄上)、3部作特権階級のわりに今までそんなにガツンとはねてなかったというか、「アベンジャーズ」からずっと主人公格のアイアンマン、「ウィンターソルジャー」をへて「エイジオブウルトロン」でリーダーとしての個性を確固たるものにしたキャップと比べると、チーム内での立ち位置…というかミッドガルドにおける立ち位置がむずかしかった。コミックでは特殊なフォントと古語で喋るので「あ、ほかのキャラとは違うな」という個性とノーブルさが一目でわかりやすいのですが、映画ではそれに匹敵するような、こいつぁ我々のような所詮死せるべきモータルとは違うぜ…とぱっとわかる個性が見つかっていなかったように思います。

そんななか燦然と現れた「ラグナロク」最高だったよね!! 移民の歌超カッコよかった!!! といったことはすでにツイッターでもぶちあがって書いたので、ここでは兄上とのこれまでの思い出を振り返りつつ、ソーってこんなキャラかな?あんなキャラかな?と今まで掴みきれなかったイメージがこの「ラグナロク」でみごと結実したのではないかみたいなことを書きたいと思います。

*筋を詳しく説明もしてないけどネタバレも気にしてないので全部見た前提で。

「ソー (2011)」~好戦的な王子様~

今見るとすごく若いしおぐしもちょっと短いし、ソーなのにソーのコスプレみたいに感じる兄上。「傲慢さと愚かさによってアスガルドを危機に陥れた」とオーディンの台詞にあったのですが、見直してみると、いわゆる偉そうという意味の「傲慢」よりどっちかっていうとひたすら「好戦的」という印象がつよい。アクションコマンドが「たたかう」だけの人みたいな。あいつらが舐めた真似をしたぞ!戦争だ!戦争だ!という思考法、これは「ラグナロク」でも明らかになったとおり昔のオーディンそのものであり、そして長女であるヘラと同じ性質です。オーディンはこの強い好戦性を自らの家系に伝わる呪いのようなものと考えていたかもしれない。この片鱗を見せたソーはオーディンによってミッドガルドに落とされます。

たたかう一択バーサーカーだった一方で、ジェーンをはじめミッドガルドで出会った人々にはわりと最初からずっと礼儀正しかった兄上。おかわり破壊等のカルチャーギャップなんかはあったけれど、「I didn't mean disrespect」と言っていたとおり、リスペクトはありました。所詮地球人はモータルだし自分達とは違うし~、みたいなことソー本人は言ってないんじゃないかな?(未確認。他のアスガルド人の台詞にはあった気がする)。ジェーンに対しても見るからに平民出身ぽいという点には一回もひっかかってない。あと追放くらったばっかりなのにすごいニコニコしてるよね(あの急にニコ!ってするやつ「ラグナロク」でも健在でしたね。かわいい)。身分にこだわらないのも基本的に機嫌がいいのも、ただの上流階級ではない最上流の上澄みで育った王子様という感じがする。

しかしその底抜けの人の好さによって、ミッドガルドでの平民の暮らしにもあっというまに順応してしまい、いやそれはそれですごいんだけどキャラ的にはパンチのないそこそこ普通の青年みたいな感じに映ってしまった。物語的に成長のあかしとしてバーサーカーでもなくなるし。もはや好戦的でもなくミッドガルドでは王子様としても扱われない兄上の個性はどっちだ!というところで次作へ。

「アベンジャーズ (2012)」~コメディセンスの目覚め~

そんなこんなで迎えた「アベンジャーズ」ですが、ここでわれわれは重要な萌芽を目撃します。兄上とコメディとの出会いです。私がアレっと思ったのはやはり例の「He was adopted(養子だ)」ですよね。あれっ兄上いま責任逃れした? 実際には私は今作を最初に見てからソー1に行ったので、正直兄上のファーストインプレッションは「神様っていってるけど意外と器が小さいんだな」でした。あとハルクにもギャグでぶっとばされたりもしてたし、コメディリリーフ的な立ち位置を振られかけていた。

ぶっちゃけ「アベンジャーズ」における兄上のコメディ要素は、兄上のために考えられた個性ではなく映画全体の雰囲気というかただのジョス・ウェドン監督の手癖だと思います。ちなみに私はウェドン監督が地雷です。「You people are so petty, and tiny!」とかさー兄上に言ってほしくないじゃん解釈違い解釈違い! 私は同監督に対しジャッジが厳しいので、なによーこれちょっと照れてない?と思ってしまう。大仰な衣装を着た神様という要素を3次元に落とし込むにあたって「神様なんてバカバカしいよね」という視聴者のメタ意識に訴えかける笑いにすることを選択した疑いが発生してない? 「There is only one god, and he doesn'r dress like that.」とかもさーまあキャップは減らず口だから言いそうではあるけどー私にとってはちょっとメタすぎというか、やりすぎなんですよね。

コメディ要素の選択には私的にかなり文句があるものの、ここでのコメディという方向性が、ミッドガルドでの個性に迷っていた兄上にひとつのヒントを与えたことはたしかです。もともとカルチャーギャップ面でコメディ要素はあったし。果たしてこの方向性は実を結ぶのか?というところで次作へ。

「ソー:ダークワールド (2013)」~ミッシング・リンク~

私にとってミッシング・リンクなだけですごめん見てない。2013年はまだそんなに映画見てなかったので普通に見逃しました。そののち風の噂に聞いたところロキがわりといい役をするっぽかったので「えっロキってあの悪役じゃん、こないだNY破壊したとこでしょ?」とどのツラ下げて感があったのでなんとなくレンタルもしてなかった。でも「ラグナロク」で(私が)ロキと和解したので今後見たら追記します。

「アベンジャーズ:エイジオブウルトロン (2015)」~泉の中心で何かを叫ぶ~

「AOU」のソーといえば「泉に裸で入ってなんかしてた」のシーンがみんなの心に強い印象を残したのですが、あれは「ラグナロク」に関係のあるシーンだという話をどっかで聞いていて、実際に「ラグナロク」を見た今振り返って考えると実は重要なシーン……でもなかった?? 「ラグナロク」ではインフィニティストーンの話、冒頭の「the stone thing」みたいな一言で流されたし…あんな唐突にぶっこんでまで挿入したシーンなのだから意味がないなんてことは…「インフィニティウォー」みればわかる??

未だ解けない謎を残したシーンですが、話の中盤で急に全裸になって謎の泉に入って叫ぶといった破天荒なこともソーならできる!という信頼というか、やはり兄上のあほぶりコメディセンスがますます方向性として確立したAOUだった。あと序盤では大事なムジョルニアを酒の肴に提供→キャップが微動させたのでちょっとギョッとする→はっはっは残念だったな、とか、子供のおもちゃをうっかり踏んずけて隠蔽とか、相変わらずの器の小ささも発揮。だが「アベンジャーズ」「AOU」で器の小ささやあほさと思われたこれらの挙動の数々が、堂々たる「自然」として立ち上がってくる、そんな「ラグナロク」までもう一歩です!

番外「ゴーストバスターズ (2016)」~そして異次元へ~

「AOU」と「ラグナロク」の間に兄上が不在のなか起こった重要なイベント、それが「シビルウォー」……ではなくソー歴史としては中の人クリス・ヘムズワースの「ゴーストバスターズ」出演です。ここでわれわれはクリス・ヘムズワースのコメディセンスの圧倒的開花を目撃します。ルックスは抜群だけど頭のからっぽな助手というステレオタイプの男性版…というにはあまりにも突き抜けた異次元のあほさ。あまりにあほすぎてもはやあほが個性でありワンノブアカインド、あほをワンアンドオンリーの魅力にまで押し上げた100年に1人のあほの逸材。コメディセンスが開花したかと思ったら異次元へ昇華していった。天才か。ポール・フェイグ監督の現場もアドリブ満載だったそうで、そうそうたるコメディ俳優に囲まれての撮影も、クリス・ヘムズワースのキャリアにおいてきっと大きな経験となったのではないでしょうか。そんな「ゴーストバスターズ」の公開は2016年7月、ちょうどその同じ頃、「ラグナロク」が撮影開始。中の人の覚醒をへて、兄上も覚醒するぞ!

「ソー:ラグナロク (2017)」~コメディを超えた自然~

「ラグナロク」はMCUの中でも強火のコメディ要素が話題の作品です。しかし劇場へむかった我々が目撃したのは、コメディ要素をがんばる兄上ではなく、自然体の兄上でした。たとえばエンドクレジット後のシーン。地球へ行って大丈夫なのかとのロキの問いに対し、ソーは「Of course, People of earth love me. I'm very popular.」と返します。想像してみたんですけどソー1の兄上なら、この台詞をにやっとチャーミングに笑って言っていたと思います。なぜならあの頃の兄上はわりと常識があったのでこれが自信に溢れた発言だとわかっていたし、”笑いのとれるところだ”というメタ意識もあったからです。しかし今、すべてを超えた兄上は真顔。堂々たる真顔での発言です。コメディの基本にして神髄、デッドパンでのボケをいただきました。決して笑わずあくまで本気感を演出するのが真顔芸の神髄ですが、これが兄上の底抜けの人の好さともぴったり合体して、キャラに裏打ちされた「本気」感がすごい。ここまでくるともはやコメディは作劇上の都合で振られた役ではなく、「あ、ソーってそういう人なんだ」という圧倒的納得感、自然な佇まいへと昇華をはたしました。

コメディ要素の自然さ演出として、観客の笑いをとるため(だけ)にやっているわけではない、という点があります。たとえばソーはいろいろテキトーなことも言う。ハルクにもバナーにも「お前のほうが好きだよ!」とか(たらし)。しかしその背後にはアスガルドを救うためになんとしてもチームアップしなければという使命感があり、単に「コメディパート」として挿入された会話ではなく、ソーの懸命さの演出にもなっています(実際兄上はどっちが好きなの?っていうと、なんかほんとにどっちでもいいんじゃないですかね、というかハルク/バナーの周囲の人ってナターシャもトニーもびっくりするほど自然にハルクとバナー両方好きだよね。本人達は受け入れられてないけど)。

また数々のセルフリファレンスも、メタ的にだけではなく劇中的に考えても面白いのがよいところでした。たとえば「AOU」のナターシャの「日が沈むわ」を試みる兄上。あれは視聴者的にも気になっていた(AOUでえらい唐突だったし)部分であるけど、それ以上に劇中的にソーがあれ見て「おっアレいいな!やりたい!」と思っていたのがめっちゃ想像できる。あと「アベンジャーズ」で社長がソーを「Point Break(サーファー君)」呼ばわりした誰が覚えているんだ案件を拾ったパスコードのところも、パスがわからない=あーソーは今まで自分でクインジェットを起動する必要なんてなかったんだな、でも他のアベメンがなんかこんなことやってたなーっていうのは見てたんだな、という場面が想像できがちだった。セルフリファレンスを通してこれまでのソーの元気なアベンジャーズ活動がしのばれる、そんなところも自然でよかったかと思います。あとこれまでのアベンジャーズ活動でのソーのあほぶりor小ささみたいなとこって、「神様なので威厳があるべき/格好をつけるべきなのにそうなっていない」というギャップからくるもの(それを狙ったギャグ)だったと思うんですけど、「ラグナロク」を見るとソーはもともと威厳があるべきでも格好をつけるべきでもない、あれで自然なんだ、ということになって、今までのギャグシーンがレトコンされ兄上かわいいモーメントへと変貌を遂げる、そんな劇的効果もありました。

私は鑑賞後にツイッターで「ギャグが照れてなかった。神様性とかジャンル自体を笑いにしてなかった」と書いたんですけどセルフリファレンスとかキメシーンの外しとかはあるわけで、でもそれが「照れてない」「ジャンル自体を笑い物にしてない」というのはどういうことかというと、私にとって照れてるor意地悪なギャグとはだいたい「ツッコミ」なんだと思います。冷めたタイプの視聴者が考えていそうなコメントを察知して物語内のキャラに言わせるようなもの、それがメタすぎるし照れてる(そして見てる私も恥ずかしい)と感じる。でも「ラグナロク」のセルフリファレンスは「ボケ」タイプが多かったと思います。過去作に言及するので大きくいうとツッコミ性が発生するのはもちろんですが、”鋭いツッコミコメント”みたいなもので取りに行く笑いではなく、自ら体を張ってボケに行く笑い。ボケにくる映画に対し、MCUやこのジャンルの映画を見てきたわれわれオーディエンスが自らつっこんで楽しむ。そういう構造をして私は照れてなかったと表現したんじゃないかと思います。

人の好さを真顔芸という個性に昇華させると共に、「ラグナロク」の兄上はソー1での個性であった好戦性にはっきりと決別を告げていました。クライマックス、戦争を望むヘラを自ら打倒するのではなく、戦争の災厄そのものであるラグナロクとともに置き去りにし、自らは民とともに脱出するのは象徴的でとてもいいラストだったと思います(今作に限らず私は最後を直接バトルで解決しない最近のMCUの傾向は好きです)。なぜならソーの敵はヘラ個人ではなかった。1作目からそれは、ソーの中にもあった、民の犠牲を顧みない好戦性だったからです。王位継承権と戦争への強い嗜好性をもつヘラはキャラというより概念であり、こうなっていたかもしれないソー自身の写し鏡だった。その写し鏡に対し、「姉だから王位継承権はあるだろうし、自分も他の人に譲るのはやぶさかでないけど、お前はだめだよだって最悪だもん」…兄上ほんとに成長した…ここはオーディンも草葉の陰で感涙の名シーンだったのではないでしょうか。

こう考えると、シリアスな戦いを捨てて人の好さ全開のコメディに走った映画自体のジャンル変更が、ソー自身の好戦性との決別、ひいては平和的な王になる選択を構造的に表していたともいえる。ソー1で示された要素をあるものは引き継ぎ、あるものは決別して(ソー2見てないけどきっと2からもきっとなんかあるはず)、ソーの個性を確立した、キャラクターディベロップメントとしてたいへん見事な着地だったかと思います。

 

ほかにも私が嫌いだった(ヴィランはだいたい皆嫌い)ロキを許した話とかハルク/バナー博士えらい話とかいろいろあるけどとりあえずここまで。付け足したくなったら追記します。