Suburbicon

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ジョージ・クルーニー監督+コーエン兄弟脚本の「Suburbicon」を見ました。結論からいうと映画としても映画外の文脈としてもかなりつらい作品だったのでつらかったことを思い出していきたいと思います。猛反省会案件です。(70%くらいネタバレ)

 舞台は1950年代、新興郊外住宅地のサバービコン。判で押したような素敵な家に素敵な中流家庭が住む平和な町です。この一見完璧なコミュニティに住むガードナー(マット・デイモン)は、良い会社に良い役職を得て、幸せな家庭を築いています。唯一の問題といえば、交通事故で妻ローズ(金のジュリアン・ムーア)が車いす生活になってしまったことですが、双子のマーガレット(茶のジュリアン・ムーア)が家のことや息子ニッキー(ノア・ジュプ)の世話を手伝ってくれるので安心です。

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そんな幸せ家庭に突然の悲劇が。ある夜、押し込み強盗に遭い、金のジュリアン・ムーアが殺されてしまいました! 悲しむニッキーですが、やがて様子がおかしいことに気づきます。なぜお父さんは犯人を捕まえようとしてくれないのか? なぜ茶のジュリアン・ムーアが髪を染めて金のジュリアン・ムーアに? そうこうしているうちに金のジュリアン・ムーア(オリジナル)にかかっていた保険金の会社から調査人(オスカー・アイザック)もやってきて…

…というのが予告などから察せられるあらすじですが、実は本作にはこれとは全く無関係にもうひとつストーリーラインがあります。予告を見て面白そう!と思って行った人には一番のびっくりといえばこれじゃないでしょうか。なぜ宣材等にも一切出ていないもうひとつのストーリーラインがあるのか? まさか2つのストーリーが合流し最後にさらなる秘密のどんでん返しが…? ないです。その全然関係ないストーリーが以下になります。

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映画の冒頭、平和なサバービコンに新しい住人が引っ越してきます。マイヤー家は身なりのいいお母さん(カリマー・ウェストブルック)とお父さん(リース・M・バーク)と息子アンディ(トニー・エスピノザ)、ほかの住人と同じく完璧な中流家庭です。ただ一点、黒人であることを除いては。白人しかいないサバービコンの住人は強い嫌悪を示し、「私たちの町を守るために」マイヤ一家に激しい迫害を加えます。庭に壁を築く、物の値段を吊り上げる、家の周囲で騒音を出すなどの騒ぎはやがてエスカレートし、ある夜、暴動に発展します。

このストーリーが上記のガードナー家のエピソードと交互に、まったく交わることなく展開します。いやーびっくりした。まさか交わらないとは。唯一の接点は、ガードナー家とマイヤー家が隣同士で、息子同士が友達ということだけです。それ以外に絡みはほぼなし。「Suburbicon」のレビューは私が読んだ中ではだいたい同じことが書いてあって、2つのストーリーラインを入れてどっちもうまくいってない、というものなのですが、そりゃ言われるというかほぼそれしか言うことない。

どっちかに集中すればもっとうまくいったかもというなら、ガードナー家のエピソードのほうでしょう。双子のジュリアン・ムーアとかすごい面白い要素なのにほとんど描写がないから最初どっちが妻なのかわからんかった。ガードナー家とその事件にかかわる人々(息子ニッキー以外、もちろん全員白人)はクズばっかりで全員金のことしか考えてませんが、クズなりにクズい見せ場があり面白みがあります。ただクズな人々をクズいまま描くのがあんま好きじゃないみたいで、ちらっと良心を見せるシーンがあったりするし、一番よかったのがニッキーと叔父ミッチの普通に感動的なシーンじゃないかなって思った。クズが好きでないならなぜこの話を撮ったのか。

対してマイヤー家のほうはどうも立派そうな人々なのですが、お母さんと息子アンディにやや意味のある台詞があるだけでお父さんは台詞もなし(なおお父さんとお母さんにはファーストネームすらなし)、ほとんどは「白人に迫害されて毅然と対応する」とか「家の中でなんとか守りを固める」という役割だけです。キャラというより装置でありモブ。こっちはストーリーラインとはいえ内容がほとんどないので多分1本の映画にはならないと思う。だから予告にも宣材にもこの一家は全然登場しません。後述するけどこういうのが本作の本当につらいところ。

 

好意的に解釈すると、2つのストーリーラインがある意図としては、「平和に見える街(現代アメリカの比喩)で起こっている2つの事件」「黒人が根拠もなく害悪だとされる一方で本当に害をなすのは欲に駆られた白人同士である」「その2つの世界は分断され交わることはない(が息子同士の交流で未来に希望をもたせる)」ということなんじゃないかと思うんですけど、分断を表現するのに本当に映画を2つに割ってどうする。いやそれが表現です!というならいいけど上記のとおりちゃんと2分割にすらなってないし。

何個もストーリーを入れてしまい散漫な印象になる、のは珍しくない事例とはいえ、「Suburbicon」のつらさはこれが「コーエン兄弟の脚本にジョージ・クルーニーが手を入れたもの」という事実です。むしろさらに具体的に、コーエン兄弟が80年代に書いたガードナー家の部分の脚本に、50年代レヴィットタウンでの黒人家族迫害の実話をかねてから取材していたクルーニーがマイヤー夫妻の部分を足したものというのが本人から明らかにされている。こんな明らかに蛇足みたいなことできる根性すごいな。というのが率直な感想なんですけどあれですよ書きながらイラっときたからひどいこというけど、そういう話してない時に意識高い話をぶっこんできて話をつまんなくする意識高い系の人という概念上の存在そのものなんですよこのクルーニー。ちがう…意識高い話、良識とモラルある話とはつまんないものではなくて多くは物語をより面白くするものでこの個体がつまんないだけで…ちがうんです…ととてもつらく悲しい気持ちになった。

人種差別を扱うことはすごく大事だけれど、作品として面白くなくていいというわけではもちろんないし、あとやっぱりどう考えてもまずいのが、複数のレビューでも指摘されていたし上で書いた通り、マイヤー家の描写が壮絶にモブというところ。そもそも平等に描くつもりならマイヤー家にもマット・デイモンやジュリアン・ムーアレベルのバリューのある俳優を起用してもっと意味のある描写を入れないとバランスがとれなかった。なんかこういうこというのいやなんですけど、わりとこのクルーニー監督の見え方って偽善者そのものというか、差別をするのは差別する側の人間性を損なうのでいけないというだけで被差別側の人間性とかはまあどうでもいい…というものに見えてしまう。ジョージ・クルーニーの善意まで深刻に疑うわけではないけどアウトプットの結果があまりに悪くてつらい。だってこれじゃ今年ジョーダン・ピール監督の「ゲットアウト」(只今日本公開中)に描かれたばかりの「一見差別なんかしない白人」の精神性にかなり肉薄してるのでは……つまんない上におまえ……

 

これ以上ないくらいのディスになりましたが、一方で私は本気でディスるのも気が引けるというか(これでも本気ではなかった)、社会問題を扱おうとすると自分の嫌さとか卑怯さが明るみに出るのはもう全人類的にしょうがないことで、だからといってじゃあ避けるほうがいいね!とかむしろ露悪的なほうが正直だよね!ってなるのはすごくいやだと思うので、明るみに出てしまった失敗は失敗としつつ次につなげよう、というのがいいと思う。なのでクルーニー監督には猛反省会をして次へつなげてほしいと思いました。これからも懲りずにすごい根性で意識高い話をぶっこんでほしい。逆に次作で社会問題は扱わず純アートですみたいな作品になってたらその時こそあの根性はどこへ!と本気のディスを入れたいと思います。

書きそびれたこととしては演技はみんなよくて、特に調査人のオスカー・アイザックはセリフ回しだけで「あっこの人今ダークコメディに出てるんだな」というのがわかってよかった。あとジュリアン・ムーアもちゃんと双子の性格を演じ分けてて(ほぼ生かされてなかったけど)すごいと思いました。